2009年06月29日
取材・文・撮影 いとうひろこ

店主プロフィール/矢留楯夫
歴史作家である八切止夫を父に持つ。
トレドの由来はマドリードの下の古都。
お父様が好きだった街で、そこから名前を付けたそう。
猫についての文献が編集者の方の目に留まり、
雑誌「猫びより(2007年3月号)」に掲載されたほか
「ピアスの似合う猫」「再開発の猫たち」
「人生まさかの神楽坂」など、執筆した自伝的物語多数。
------------------------------------------
「今日は寒いからね。温かいスープにしたんだよ」
やわらかく語りかけるような口調。
その日の天気や栄養のバランスを考えて出される定食。
常連にも、初めて来店する人にも変わらない姿勢に、誰もがほっとするだろう。
「お店が古くて、雰囲気があっていいねって言われるよ。
別に、狙って古いままにしているわけじゃないんだけどね・・・」
久しぶりに来た常連さんは誰もが矢留さんに同じことを聞く。
「最近猫きてる?」
そして
「あの話、どうなった?」――――
<1 始まりは、雀荘への出前>
1972年(昭和47年)5月15日。
沖縄が日本に返還された、まさにその日。
神楽坂に夫婦2人で経営する小さな弁当屋ができた。
『弁当の店 トレド』。
「父と母は、僕が幼いころに神楽坂に住んでいてね。
その後、二人は離婚しちゃって、母が生計をたてるために
一人で神楽坂に雀荘を開いたんだ」
70年代の大学生の娯楽といったら、麻雀。
その当時、神楽坂下周辺には、5軒ほどもの雀荘が軒を連ねていた。
東京理科大学(物理大学)、日本医科歯科大学、法政大学・・・など、
周辺の大学生がつのって遊び、どこも連日盛況だったそうだ。
「雀荘は時間で料金が決まる。
途中で”お腹すいたから”と帰られると、儲けもそれまで。
だから長くいてもらうためには食事があればいいよねって母と話して、
雀荘のすぐ隣に店を出して、出前をすることにしたの」。
<2 日に200食の「トレドライス」。>
その時のメニューが「トレドライス」。
舟型のどんぶりにご飯をよそい、
肉や野菜を入れて卵でとじるという、親子丼のようなものだった。
「僕がそれしか作れなかったってのもあるけど、
丼の形にしたのが、麻雀をやりながら食事する
学生には食べやすかったらしくて。
一日に200食はトレドライスを作っていたよ」。
”麻雀のお供にトレドライス”
そんな形が一般的になると、学生にも欲が出る。
昼にトレドライスを食べた学生が、夜も来て
「何か違うものを食べさせてくれ」と言ってきたり、
「昨日トレドライスを食べたから、今日は違うものが食べたい」
などのリクエストが出始める。
そこで八留さんは、学生たちの栄養のバランスを考え、
魚や野菜を入れた弁当を用意してあげるようになった。
それが今の「日替わり定食」の元祖である。
奥様の作る伝統的な日本料理。
ご主人の作るスープや揚げ物・焼き物。
添加物をつかわない。野菜がたくさん入っている。
そんな夫婦の温かみのある手料理は、学生にも人気だった。
「思い出すと懐かしいよ。
神楽坂に何もなかった時代だから、
うちみたいな店でもみんなが喜んでくれた。
炊いても炊いてもご飯がなくなって、盛況だったね」
<3.捨て猫 >
情勢が変わってきたのは、1980年代。
世はバブルの真っただ中で、
都内各所で高層ビルやマンションが建つ。
神楽坂のその古い街並みにも注目が集まった。
多くのお店ができ、学生向けの安い定食屋も増えた。
さらには、学生も麻雀を主な娯楽としなくなり、
周辺の雀荘が次々に閉店。
「トレドも厳しくなるなあ」などと思っていたら
周辺の店舗から
「大きいビルが建つ。立ち退きを迫られるらしい」
などのうわさが立つようになった。
「立ち退きって、この場所から他へ移れっていうこと?
どこにも行く場所なんてないよ!」
あるとき、トレドの近くのビルに猫たちが捨てられていた。
かわいそうで見ていられなかった八留さんは、
お店の残り物で餌をあげた。
「野良猫にえさをあげるのはよくない」
そんなことは承知だった。
古くて何もなかった街に、急にビルが立って行き場を失った猫。
なんだか自分と重なって、放っておくことはできなかったそうだ。
「時代や大きい権力に弱者が淘汰されるなんて、かわいそうだ。
せめて俺が、この小さい猫たちを助けてあげられたらいい」
立ち退きの問題は、なかなか決着しかかった。
湧いては消え、一息つくとまた湧いてくる。
どうなるのかは、まったく見えない状況。
それでも通ってくれる常連さんの存在や、
自分を必要としている猫たちに、何度も助けられたという。

<4.「再開発と闘っているんじゃない。願っているんだ」>
そして、2000年に入り、
神楽坂通り2丁目付近を、
表通りと裏通りでまとめ、「神楽坂2丁目ビル」にするという
再開発の話がとうとう本格化する。
------------------------------------
以下、毎日.jpから抜粋。
狭小なキャンパスの床面積拡大を目指す理科大側と、店舗や住宅の建て替えを検討していた地元側との思惑が一致し、04年に等価交換方式で共同ビルを建設する基本協定を結んだ。8階建てのうち3階までを地権者側の店舗と住宅、4階以上は理科大の大学会館とする計画だった。
区は06年3月に区内ほぼ全域に高さ制限を設け、地域の環境や防災にプラスになる場合などに限って要件の緩和を認めている。高さ40メートルの制限を大幅に超える124メートルのビルを建てる理科大のキャンパス再開発に新宿区は難色を示し、こう着状態に陥った。結果、区道拡幅が遠のき、共同ビルも建設できない状態が続いてきた。
昨年8月に区と理科大の話し合いが再開。キャンパス再開発ビルは高さ90メートル程度として防災機能を持たせ、共同ビルは現在の区道を前提に8階建てから7階建てに設計変更して今年度内に着工する方向で調整を続けている。
------------------------------
2丁目近辺の店は立ち退きを迫られ、次々と店を閉めた。
ここ何年もシャッターのままのお店がそれだ。
住居も空き家になった。その光景は、まさに廃屋。
治安の面でも決していいとはいえない光景だ。
「うちはウラ一軒なの。もうみんなしめちゃった。
一度、マスコミが来たときがあって、僕がインタビューに答えたんだ。
何を言ったかな・・・たぶんありのままの感情を話したんだと思うけど。
だからなのか、それ以来目立っちゃって。
理科大は学生さんも教授もうちを使ってくれて、
すごく身近な存在で、大切にしていたんだけど、
闘ってるみたいになっちゃった。
そんなつもりはなかったんだよ。
結婚してから40年近く住んでいる町で、孫も近くに住んでいるんだ。
だから、ここを離れたくない。
ここで店を出していたいっていう、それだけなんだ」
八留さんは共存できる道を何度か提案した。
しかし、その案は全く聞いてもらえなかったという。
2007年、ついには病気になり、入院・手術もした。
「心労もあったのかもしれないね。
でも、病気になっても、店を閉めようって気になれないの。
元気になって、また厨房に立ちたい。お客さんと話したい。
入院中は、ずっとそう思っていたなあ」
その思いで、見事に復帰。
今日まで店を続けてきた。

<5.死んだ街がよみがえるとき>
再開発・立ち退きの話は、何度も湧いては、
バブルがはじけたり、問題点が浮上したり、
なぜかそのつど流れてきた。
今までお店があったことが不思議なほどだという。
「でも いつまでもこんな死んだような一帯を
ほったらかしにしておけないでしょ。
だから、今度こそやるだろうね。
どこかに行けと言われても、私たちもこの年齢だから、
また一から新しい店を建てて・・・なんて、
ちょっと現実的な話ではなくてね。
今は、その日が来ないことだけを願っている状態だよ」
新しいビルが建つと、以前そこには何があったかさえ分からなくなる。
得ことによって、失われるもの。
それを「町の移り変わり」だと一言で片づけてしまうには、
あまりに寂しいではないか。
八留さんが大切にしていた猫
――人間の手によって、
生かされることも捨てられることもある弱い立場――
と、立ち退きを迫られている一店主。
それらが、痛いほどに重なってしまう。
「僕たちは儚い猫のような存在だったかもしれない。
でも、最後、力を振り絞って、終わるまでやりたい。
お客さんが喜んでくれるうちは、
こんな店でも開けていたいんだよ」
追記:「神楽坂2丁目ビル」着工予定は2009年7月。
トレドは張り紙にて「長い間お世話になりました」という張り紙が張ってある。
店主プロフィール/矢留楯夫
歴史作家である八切止夫を父に持つ。
トレドの由来はマドリードの下の古都。
お父様が好きだった街で、そこから名前を付けたそう。
猫についての文献が編集者の方の目に留まり、
雑誌「猫びより(2007年3月号)」に掲載されたほか
「ピアスの似合う猫」「再開発の猫たち」
「人生まさかの神楽坂」など、執筆した自伝的物語多数。
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「今日は寒いからね。温かいスープにしたんだよ」
やわらかく語りかけるような口調。
その日の天気や栄養のバランスを考えて出される定食。
常連にも、初めて来店する人にも変わらない姿勢に、誰もがほっとするだろう。
「お店が古くて、雰囲気があっていいねって言われるよ。
別に、狙って古いままにしているわけじゃないんだけどね・・・」
久しぶりに来た常連さんは誰もが矢留さんに同じことを聞く。
「最近猫きてる?」
そして
「あの話、どうなった?」――――
<1 始まりは、雀荘への出前>
1972年(昭和47年)5月15日。
沖縄が日本に返還された、まさにその日。
神楽坂に夫婦2人で経営する小さな弁当屋ができた。
『弁当の店 トレド』。
「父と母は、僕が幼いころに神楽坂に住んでいてね。
その後、二人は離婚しちゃって、母が生計をたてるために
一人で神楽坂に雀荘を開いたんだ」
70年代の大学生の娯楽といったら、麻雀。
その当時、神楽坂下周辺には、5軒ほどもの雀荘が軒を連ねていた。
東京理科大学(物理大学)、日本医科歯科大学、法政大学・・・など、
周辺の大学生がつのって遊び、どこも連日盛況だったそうだ。
「雀荘は時間で料金が決まる。
途中で”お腹すいたから”と帰られると、儲けもそれまで。
だから長くいてもらうためには食事があればいいよねって母と話して、
雀荘のすぐ隣に店を出して、出前をすることにしたの」。
<2 日に200食の「トレドライス」。>
その時のメニューが「トレドライス」。
舟型のどんぶりにご飯をよそい、
肉や野菜を入れて卵でとじるという、親子丼のようなものだった。
「僕がそれしか作れなかったってのもあるけど、
丼の形にしたのが、麻雀をやりながら食事する
学生には食べやすかったらしくて。
一日に200食はトレドライスを作っていたよ」。
”麻雀のお供にトレドライス”
そんな形が一般的になると、学生にも欲が出る。
昼にトレドライスを食べた学生が、夜も来て
「何か違うものを食べさせてくれ」と言ってきたり、
「昨日トレドライスを食べたから、今日は違うものが食べたい」
などのリクエストが出始める。
そこで八留さんは、学生たちの栄養のバランスを考え、
魚や野菜を入れた弁当を用意してあげるようになった。
それが今の「日替わり定食」の元祖である。
奥様の作る伝統的な日本料理。
ご主人の作るスープや揚げ物・焼き物。
添加物をつかわない。野菜がたくさん入っている。
そんな夫婦の温かみのある手料理は、学生にも人気だった。
「思い出すと懐かしいよ。
神楽坂に何もなかった時代だから、
うちみたいな店でもみんなが喜んでくれた。
炊いても炊いてもご飯がなくなって、盛況だったね」
<3.捨て猫 >
情勢が変わってきたのは、1980年代。
世はバブルの真っただ中で、
都内各所で高層ビルやマンションが建つ。
神楽坂のその古い街並みにも注目が集まった。
多くのお店ができ、学生向けの安い定食屋も増えた。
さらには、学生も麻雀を主な娯楽としなくなり、
周辺の雀荘が次々に閉店。
「トレドも厳しくなるなあ」などと思っていたら
周辺の店舗から
「大きいビルが建つ。立ち退きを迫られるらしい」
などのうわさが立つようになった。
「立ち退きって、この場所から他へ移れっていうこと?
どこにも行く場所なんてないよ!」
あるとき、トレドの近くのビルに猫たちが捨てられていた。
かわいそうで見ていられなかった八留さんは、
お店の残り物で餌をあげた。
「野良猫にえさをあげるのはよくない」
そんなことは承知だった。
古くて何もなかった街に、急にビルが立って行き場を失った猫。
なんだか自分と重なって、放っておくことはできなかったそうだ。
「時代や大きい権力に弱者が淘汰されるなんて、かわいそうだ。
せめて俺が、この小さい猫たちを助けてあげられたらいい」
立ち退きの問題は、なかなか決着しかかった。
湧いては消え、一息つくとまた湧いてくる。
どうなるのかは、まったく見えない状況。
それでも通ってくれる常連さんの存在や、
自分を必要としている猫たちに、何度も助けられたという。

<4.「再開発と闘っているんじゃない。願っているんだ」>
そして、2000年に入り、
神楽坂通り2丁目付近を、
表通りと裏通りでまとめ、「神楽坂2丁目ビル」にするという
再開発の話がとうとう本格化する。
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以下、毎日.jpから抜粋。
狭小なキャンパスの床面積拡大を目指す理科大側と、店舗や住宅の建て替えを検討していた地元側との思惑が一致し、04年に等価交換方式で共同ビルを建設する基本協定を結んだ。8階建てのうち3階までを地権者側の店舗と住宅、4階以上は理科大の大学会館とする計画だった。
区は06年3月に区内ほぼ全域に高さ制限を設け、地域の環境や防災にプラスになる場合などに限って要件の緩和を認めている。高さ40メートルの制限を大幅に超える124メートルのビルを建てる理科大のキャンパス再開発に新宿区は難色を示し、こう着状態に陥った。結果、区道拡幅が遠のき、共同ビルも建設できない状態が続いてきた。
昨年8月に区と理科大の話し合いが再開。キャンパス再開発ビルは高さ90メートル程度として防災機能を持たせ、共同ビルは現在の区道を前提に8階建てから7階建てに設計変更して今年度内に着工する方向で調整を続けている。
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2丁目近辺の店は立ち退きを迫られ、次々と店を閉めた。
ここ何年もシャッターのままのお店がそれだ。
住居も空き家になった。その光景は、まさに廃屋。
治安の面でも決していいとはいえない光景だ。
「うちはウラ一軒なの。もうみんなしめちゃった。
一度、マスコミが来たときがあって、僕がインタビューに答えたんだ。
何を言ったかな・・・たぶんありのままの感情を話したんだと思うけど。
だからなのか、それ以来目立っちゃって。
理科大は学生さんも教授もうちを使ってくれて、
すごく身近な存在で、大切にしていたんだけど、
闘ってるみたいになっちゃった。
そんなつもりはなかったんだよ。
結婚してから40年近く住んでいる町で、孫も近くに住んでいるんだ。
だから、ここを離れたくない。
ここで店を出していたいっていう、それだけなんだ」
八留さんは共存できる道を何度か提案した。
しかし、その案は全く聞いてもらえなかったという。
2007年、ついには病気になり、入院・手術もした。
「心労もあったのかもしれないね。
でも、病気になっても、店を閉めようって気になれないの。
元気になって、また厨房に立ちたい。お客さんと話したい。
入院中は、ずっとそう思っていたなあ」
その思いで、見事に復帰。
今日まで店を続けてきた。

<5.死んだ街がよみがえるとき>
再開発・立ち退きの話は、何度も湧いては、
バブルがはじけたり、問題点が浮上したり、
なぜかそのつど流れてきた。
今までお店があったことが不思議なほどだという。
「でも いつまでもこんな死んだような一帯を
ほったらかしにしておけないでしょ。
だから、今度こそやるだろうね。
どこかに行けと言われても、私たちもこの年齢だから、
また一から新しい店を建てて・・・なんて、
ちょっと現実的な話ではなくてね。
今は、その日が来ないことだけを願っている状態だよ」
新しいビルが建つと、以前そこには何があったかさえ分からなくなる。
得ことによって、失われるもの。
それを「町の移り変わり」だと一言で片づけてしまうには、
あまりに寂しいではないか。
八留さんが大切にしていた猫
――人間の手によって、
生かされることも捨てられることもある弱い立場――
と、立ち退きを迫られている一店主。
それらが、痛いほどに重なってしまう。
「僕たちは儚い猫のような存在だったかもしれない。
でも、最後、力を振り絞って、終わるまでやりたい。
お客さんが喜んでくれるうちは、
こんな店でも開けていたいんだよ」
追記:「神楽坂2丁目ビル」着工予定は2009年7月。
トレドは張り紙にて「長い間お世話になりました」という張り紙が張ってある。
2009年04月26日
2009年04月25日
場所が分かりにくいかもしれないけど、古い佇まいや、
中に入ってからの雰囲気、あとはお店のそれにマッチした店員さんの(ご夫婦?)仕事ぶり…
楽しめるポイント多し。
「あ、焼き鳥ってこんなふうにお店の味がでるんだ」と幸せな気分になった。
おまかせコースは8串と焼きおにぎりとスープがついて2,500円。
でもお酒が高かったのか、意外にいい値段になった気がする。
店内は広くはないため、大勢で行くことは推奨しません。
2人〜3人で軽く一杯しながら、気軽でかつディープな会話を楽しむために行って欲しい。
<ランチ情報>
残念ながらランチはナシです。
| 採点:★★★★★ |



